【外から日本を見て何が見えるか】「隠れた名店理論」から紐解く、我々日本人がこのコロナ禍の激動の時代にあるべき姿とは
どうも、2018年からデュッセルドルフに住んでいるHirofumiです。
なんだか今日は物書きみたいなタイトルですねえ
本記事では持論を展開します。ふと、これまで断片的に思考を巡らせていた事がすっと繋がった気がするので、忘れないうちに書いておきます。お付き合い頂ければ幸いです。
コロナ禍を外国で過ごすという貴重な経験
書き始める前にこの事について少し触れておきます。
半沢直樹みたいだなあ
コロナ禍が無かったとしても、外国に住みながら日本を日本人として客観視する事それ自体がそもそも良い経験・機会です。そこから見えてくる事が沢山あります。自身がそれまで当たり前だと思ってきた事を違う文化に身を置きながら眺めることで、自身の文化を客観視出来るどころか特徴を具体的に掴むことが出来て、それこそ紙に書き出して目に見える形に出来るなど、自分の中での整理や定義が出来る様になります。
特に今の、正に時代が大きく変わろうとしているこの激動のコロナ禍を外から冷静に見られるというのは、半ば強制的に井の中の蛙にならなくて良いという機会を与えられているのだとすら思えます。そんな中で日本を客観的に眺め、そのような状態に陥っている社会や人を見れば、不思議と少し冷めた感情で見られると同時に、もし自分がそこに居たらどうなっていただろうかと自問し見つめ直す良い機会とすらなるかも知れません。
何が言いたいんだ?
要は「結構面白い経験をしている最中だから、そんな悲観的になることもない」という事です。コロナ禍を外国で過ごす事により間違いなくストレスは増えていると思いますが、なかなか出来ない経験だと自分に言い聞かせ、前向きになれたらこっちのものです。
気楽に行こうぜ
さて本題に入ります。
「隠れた名店理論」とその心理
こんな理論はそもそも無いですが、敢えて「隠れた名店理論」と名付けてしまいました。本記事ではそう呼びます。私が名付け親になっちゃったりして。
どんな理論なんだ?
このリフ、誰でも一度は聞いた事があるかと思います。何となくこじんまりとした小料理屋を連想しますよね。しかしここで言う名店とは必ずしも飲食店の事ではなく、小売店や美容室、はたまたお気に入りのブランドや作家やアーティストなどを指します。言うなれば「自分のお気に入り」でしょうか。
この「隠れた名店を他の人に知られたくない」という理論を展開する人は、その理由を「流行っちゃってオレが入れなくなったら困るからな!ワハハハハハ!」と誤魔化したり、或いは「新参者に荒らされてお客とお店の質が下がったら嫌だから」と尤もらしい事を言う場合が多いです。はたまた「この名店の良さが分かる人以外には来て欲しくない」という、相手(お店)を置き去りにしたある種の独占欲とも見て取れる様な持論を展開する場合すらあります。
行かずにどうその良さを知れようか(反語)
但しここで「ある種の独占欲」と言ったのは飽くまでも例えであって、この心理は本質的には独占欲とは異なると考える、と最初に断っておきます。
ほうほう
この「隠れた名店理論」の心理についてズバリ言うのであればこうです。
参考:自分がすきだったものが有名になると冷める -「さゆり」という本を4,- その他(暮らし・生活・行事) | 教えて!goo
もう答えは正にこれだと思います。そして外から日本を見ていて何を思うか、それは「この心理は島国日本独特なもの」だという事です。
この心理は独占欲から来るものなのか
この理論を出すと必ず「それは正にある種の独占欲だよ」と唱えてくる人がいます。それもそこにはある例え話が付いてきます。
そもそも独占欲とは何かと辞書を引いてみると「あるものを自分だけのものにしたいという欲求、独り占めしたいという欲求」と出てきます。果たしてこの「隠れた名店理論」の心理は、本当に独占欲から来るものなのでしょうか。
上記、ある例え話とは日本のアイドル文化に於けるものだそうです。
興味深いですなあ(頭取風)
アイドルファンの間でも人気が出てくると例外なく似た様な現象が起きるそうです。その結果そこでは「アイドル歴」という新たな概念が生まれたそう。なるほど確かにこれは独占欲と言えるのかも知れないですが、正直に言うと自分がその立場になった事がないので断言は出来ません。但し言っている事は分かります。
これについて以下で理由を述べていきます。
「隠れた名店理論」を唱える人に見られる傾向
経験的にこれはほぼほぼ、99%当てはまると思っています。「隠れた名店理論」を唱える人には以下の傾向が見られます。
これは無意識のうちに来るマウントの一種だと思っています。注目すべきは、このマウントは「ミーハーと思われない、ミーハーと思わせない」が主だと言う点で、もっと言うと「単なる知識自慢ではない」と言う点です。
掘り下げてみましょう。極端な話を挙げるのであればこうです。
これもやはり無意識のうちに来るマウントの一種だと思っています。マウントが取れなくなる事を無意識のうちに自覚しているのではないでしょうか。
そして最終形はどうなるか、もっともっと極端な例を挙げます。
もうこの形に尽きると思います。例えば「まだ日本に入ってきていないドイツの逸品を探す」とか。無意識のうちに次にマウントが取れる材料探しをしているのだと思います。誰にも知られていない良いモノでないと興奮しなくなってくる様な感覚、とでも言いましょうか。
この現象は特にファッションやガジェット系でよく見られる気がします。その証拠に和製英語である「Select Shop」などと言うリフも新たに生まれました。生まれたどころかこの心理が日本ではマーケティングに於いて非常に重要な要素とすらなっている気がします。
参考:自分がすきだったものが有名になると冷める -「さゆり」という本を4,- その他(暮らし・生活・行事) | 教えて!goo
では何故この様な文化というか傾向が生まれたのでしょう。そこにもやはり「ある島国日本独特なもの」が関係していると思います。
島国日本に於けるある特徴的な文化
なんだなんだ?
ズバリ申し上げましょう。
例えばサッカーや野球をスタジアムまで観に行く人は「それを好きでないとダメ」みたいな風潮があります。「詳しくないとダメ」とまでは言いませんが、極端に言うとそうなります。と言うか、周りが勝手にそう思ってくるという風潮があります。
実際に私も「今日はサッカーを観に行くんだ!」などと周りに言いふらせば、「サッカー好きなの?詳しいの?」などと聞かれそうだなと少し身構えてしまいます(※私はサッカーに全く詳しくありません)
この手の経験は誰もがあるでしょう。うかつに好きとか言えないアレと同じです。
一方でこれが大のサッカー好きでめちゃくちゃ詳しい人だったらどうでしょう。「サッカー好きなの?詳しいの?」と聞かれるのを心のどこかで無意識のうちに期待しているのではないでしょうか。
これについてもっともっと極端な話をすると、例えば「軽い気持ちでジャズのライブに行く事は、ジャズが本当に好きな人からしたら許せない」というような風潮すらあります(※ジャズはあくまでも例えです)
「ライブに行く前に予習をする」という現象も、本質的にはここから来ているのだと思います。「予習した方が楽しめるじゃん?」は建前です。
これは分かりますね
外国に来て日本を客観視することで改めて感じましたが、これぞ島国日本の良くも悪くも独特な文化なんですよ。これが良いとか悪いとかそういう議論は一旦置いておいて、これが現状であり母国の長い長い歴史の結果なのです。
しかし、今、それが時代に合っているか、つまり自分たちが目指している世間の流れと辻褄が合っているかは、私を含め日本人全員がよくよく考えるべきだと、私は思います。
初期のドラゴン桜で桜木先生が「日本人は語学となると途端に完璧主義者となる」と言っていたのを思い出します。この風潮はどこかこの「言語に於ける完璧主義」と似ている気がします。
確かに
果たしてこのモチベーションは何なのでしょうか。それは所謂「集団主義」が根強い日本に於いて、周りからの攻撃を避け穏便に生きてゆくために生まれた「自己批判」と「自己犠牲」の文化、そして「自殺の美学」に繋がると私は考えています。この話の深掘りはまた別の記事でします。
さてこの風潮、そしてそもそものモチベーションが生み出す副作用(弊害)について考えてみます。
電車の中では静かにしないといけない理論
ほうほう
日本には「集団主義」や「全体主義」と呼ばれる、「全体の利益のために時には自身を犠牲にする文化」があります。これについては先の通り深掘りはまた別の記事でしますが、「個人主義」が強いドイツでは全く想像も出来ない文化だなと思います。
更に近年ではこれに関連して「同調圧力」などという新たなリフも生まれ、特にその文化が行き過ぎた際に反発するために用いられていたりします。この現象は大変興味深いです。
我が日本で特に根強い「集団主義」の文化に於ける「電車の中では静かにしないといけない理論」とは以下であると私は考えます。
これに於ける問題は相互理解が欠けている点です。ここで言う理解とは認め合う事ではなく、お互いに「自分はこう思うが、違う風に思う人もいる」と、自身との差・違いを見出し合う事それ自体です。この時、その差・違いを認め合う必要は全くありませんが、見出して認識するという少しの手間を割く努力が必要だと思います。
特にこのコロナ禍の激動の時代に於いて厄介なのは、「電車の中では静かにしないといけない理論」が行き過ぎた状態となっている事です。と言うかコロナ禍以前から既にそれが実態として現れていましたが、このコロナ禍の不安定な世の中でより顕著に現れていると思います。例えば「県外ナンバー車への嫌がらせ」など挙げ出せば切りがないでしょう。外から見ていなくても「おいおい我らが日本人何をやっているんだよ!」と思わずにはいられないアレです。この不安定な状態に於いて、一部の人の間で心の弱さや器の小ささが顕著に露呈し、相互理解が全く行われていないのだと思います。
加えて「集団主義」に於いてこの「電車の中では静かにしないといけない理論」が新たに生まれる時、実態として「BがAの心の弱さに合わせている」場合が少なからずあります。またこれが行き過ぎる時というのは、決まってAは自身の心の弱さや器の小ささと真に向き合おうとせず、そして相手を理解する一手間の努力をせず、「集団主義」を自分の都合の良い様にのみ解釈しているという、残念な実情がある様に思います。
日本人として、弱い日本人が増えてしまっているのではないかと、日本人ではありますが残念に思わずにはいられません。
「隠れた名店理論」の心理に潜む真の理由
少し話が脱線しましたが、「隠れた名店理論」の心理に潜む真の理由ついて、これらを踏まえた上で改めて纏めたいと思います。
ズバッと纏めて下さいよ!
今我々日本人に求められるもの
自分が100%強い人間かと言われれば、必ずしもそうだとは思っていません。場面場面で「今、弱さが出ていたな」と省みる事は多々あります。もっと言うと、私は、生きていく上での大きなテーマの一つに、この「自分自身の心の弱さ及び恐怖心とどう浮き合うか」があると思っています。この認識の下でいかに目を背けずに向き合う事が出来るか、が人生において非常に大切だと常々考えています。
つまり今我々日本人に求められる事は正にこれです。
・都合の良い部分だけ「集団主義」に甘えるような弱さからいかに脱却出来るか
・そして、その弱さを人にさらけ出せる強さを持てるか
仰る通りでございます!
真に強い大和魂を持った日本人というのは、この姿のことを言うのだと私は思います。
逆に言うとこの様な強さは、例えばドイツ人には到底成し遂げられるものではありません。自身の主張を強くハッキリと持たないと生き残れない環境で発展してきたドイツでは先の通り「個人主義」が非常に強く、自分の強さは相手を攻撃する(ねじ伏せる)強さとなって現れ、現代ですらそうでないと生き残れないのです。ですので、この様な人としての真の強さを追い求める事が美学とされる日本人である事それ自体が幸せな事であり、もはやそれだけで既に日本人としての誇りを兼ね備えているのだと胸を張って良いと私は思います。その上でこれらと向き合うのです。
そして「隠れた名店理論」はほんの一例ではございますが、このような理論を展開する人は、自分自身が日本の世の中を先の様な「電車の中では静かにしなければならない世の中」にしてしまう当事者になり得る恐ろしさを備えていると自覚することが必要だと考えます。
更に言うと、自分自身が潜在的にその様な当事者になり得るのにも関わらず、一方でその様な今の行き過ぎた状態の世の中に対し否定的な意見を唱えることそれ自体が、全く以って筋が通っていないという事を認識せねばなりません。
強く美しい日本人であるために、まずはここからスタートすることが必要だと考えます。
最後に
本記事のテーマは非常に纏めづらいので「最後に」とさせて頂きます。
ちゃす
ただでさえ時代の変化が物凄く早い現代に於いて、しかもコロナ渦で大きく時代が変わろうとしているこの瞬間に、私たち日本人はどうあるべきかに繋がることが、「隠れた名店理論」の深掘りから紐解けてしまいました。
どうしても弱さが露呈してしまいがちなこの不安定な状況下で、いかに日本人としての強さや美しさを保つことが出来るか、はたまた取り戻すことが出来るか。今、日本人のあるべき姿の全てはここに掛かっていると考えます。
やれやれ
駄文を大変失礼致しました(このリフが正に「集団主義」に於いて周りからの攻撃を避けるために生まれた「自己批判」の最たるものであります)
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